大麻吸引問題における生クリームな外国人力士たち

今現在、話題になっている外国人力士による大麻吸った吸わない事件。事の真相は、当事者とはなんら関係のない私にと手知る由もありませんが、まあこんな結果になるなんてね。

「自分たちは吸っていない」元露鵬ら兄弟、徹底抗戦の構え(YOMIURI ONLINE)

で、こっちは吸ったことは認めてますが、処分不服のご様子で。

大麻所持の元若ノ鵬が提訴 「解雇、厳しすぎる」(47NEWS)

自分が悪いというのは認めており、また裁判を起こすのは良くないとは言っているものの、どうしても相撲界に残りたいみたいです。まあ、給料を含め今までいたところにしがみ付きたい気持ちはわからなくもありませんが・・・

 

日本らしさ。

この「らしさ」という言葉は、その対象が持つ文化や主観といった不確かな枠組みの中で、腰を下ろしています。なので、その表現が曖昧さを伴うと同時に、使うことを避けるわけにもいかない言葉です。

で、日本らしさ。

彼ら外国人力士がとった行動は、この日本らしさという点で言えば、違和感があります。もちろん、この様なケースにおいて別に日本人だけが違和感を感じるとは思ってませんが、今までの日本社会の流れからいえば、今ひとつしっくりこない行動です。

それがまた、特に日本の伝統文化を強調する「相撲」という枠組みの中で起こった出来事ですから、なおさらです。立派な桐箱の中からヨモギ饅頭を取り出して食べてみたら、中からはアンコじゃなくて生クリームが出てきたみたいな。「原材料は輸入品でも、まさか生クリームとはね。結構イケるかもしれないけど、それって昔から食べてるヨモギ饅頭じゃないじゃん!」って感じですかね。

他のスポーツとは違って伝統的な様式と精神性を重んじることになっている角界にとって、「時代が時代だからね」なんて言ってられないわけで。方々で言われている通り、ちょっと育成過程に甘さがあったんじゃないかと。そこで一生懸命相撲に励む力士達じゃなく、1から餡を練り直す意気込みと仕組みが、職人さん、つまり指導的立場にある人たちには必要なんでしょうね、きっと。


post by ノリユキ at 12:07 | Comments/Trackbacks(0)

再び「Win-Win」という言葉が目立ってきた気がする

随分と前に「Win-Winの関係」なんて言葉が流行りましたが、しばらく聞かねーなと思ってたところに数年前、ホリエモンのニッポン放送買収劇の際に「Win-Win」という言葉を久しぶりに聞き、胸糞悪くなった覚えがあります。

んで、偶然なのかは知りませんが、最近Webをウロウロしているとこの「Win-Win」という言葉を目にすることが増えたような気が。今日だけで2回も見てしまいました。

別に「Win-Win」そのものの考え方に不服も不満もありませんが、なんかその言葉聞くと嫌な気分がするんですよね。わざとらしさと言うよりも、そこにある背景の暗転する二重構造というか何と言うか。

最近、山手線の中でお年寄りに席を譲る若者を度々目にします。昔は良くあった光景で、一時目にしなくなった、でも最近増えてきた様な、そんな風景です。

で、それを見かける度にとっても清々しい気分なんですが、でも一方では鼻につくこともあるわけで。最近、我先にと乗降者を押し退けて電車に乗り込もうとする年配者がやけに目立ちます。てか、山手線なんて、そんなのオンパレードでしょ。

年寄りに席を譲る若者と、若者を押し退けて席を取ろうとする年寄りと。矛盾と言うよりも、逆転してると言うかヘビが自分のシッポ喰ってる構造と言うか。

まるで、鼻にかかった声で「コリン星」とか言ってるユウコリンが実は財テク家だったと言う衝撃的なニュースを先日見せられた気分です。

それと似た様な気がするんですね、「Win-Win」という言葉が持つ背景は。「Win-Win」とかに感銘して実践してる人の裏側で、「Win-Win」を吹聴してる人は全然Win-Winしてねー、と言うよりWin-Loseじゃねえか。って感じで。

まあ、あんまり馬鹿げた社会に反転してかないように、とりあえずコリン星に向かって拝んでみるとします。


post by ノリユキ at 04:31 | Comments/Trackbacks(0)

正社員のクビを切りやすくする法制度改革の提案に、物思う

週刊 ダイヤモンド 2008年 2/9号 [雑誌]の冒頭にある「プリズム『改革の本丸は何か』(著作:辻広雅文)」とか言うコラム。それを電車の吊り革に掴まりながら読んで、ちょっと物思いにふけりました。

このコラムの要旨は、「正社員のクビを切りやすくする法制度改革」の提案です。

格差社会の中で最も深刻なのは、正社員と非正社員の処遇格差だろう。(中略)であれば、正社員の整理解雇を容易にする労働法制の大転換は考えられないか。(中略)労働市場が流動化すれば、人材の最適配分が進み、再挑戦の場も広がり、社会全体の生産性が高まるからだ。

週刊 ダイヤモンド 2008年 2/9号 [雑誌]P.7「プリズム」より抜粋

ん・・・まさに新自由主義的発想ですか。ただ、その言に頷くと同時に、素直に頷けない。

確かに、正社員の整理解雇が簡単に行えるようになれば、労働市場は流動化するでしょう。そういった点から言えば、この著者の提案には頷く余地はあります。

でも、そうは問屋が卸さねぇ。

労働市場の流動化に伴って、適材適所にありつける人間なんて、一握りにしか過ぎないんじゃないか?って、そう思うわけです。結局労働市場における労働力の均一な分配化なんてあり得ないわけで。誰かが意図的に調整してかないと、余計に格差を広めちゃう原因にもなりかねないってば、マジで。

ダーウィニズム的な発想を賛美するのは構いませんが、それはとどのつまり淘汰される人間が出てくるってこと。

よ~く考えてみてください。

たった1度か数度の面接と履歴書、それとペーパーテストで、就業希望者の能力と秘められた才能を、人事担当者は完璧に見抜けるんですか?いや、求人だけじゃなく、現に社内で働いてる人の適材適所を人事部は完璧にこなせてるんでしょうか?出来てないでしょ、マジで。

仮に、人事担当者がそれを完璧に見抜けるもんだとしましょうか。でも、キャパってもんがあるでしょ。例えば能力Aを必要とする業界および分野が抱え込める人員数が10,000人が上限だとして、でもその能力Aを持つ人は現実に12,000人いたとしたら?2,000人はその能力を活かしきれずに溢れちゃうでしょ。で、結局は能力のない分野で雑魚として働くことになる。もしくは職にありつけない・・・

結局、淘汰される人間を増やしかねない結果にならないか。格差の助長になりかねないわけです。もっとベーシックな部分を見つめなおしていかないと、大きな過ちを犯しそうな気がします。今、酔っ払っているせいかもしれませんが。

かといって、このコラムにある主張にも絶対反対ってわけじゃない自分がいます。まぁ事の論点は、労働市場の流動化を促進すると共に、資源配分の調整をセーフティーネットも含めた上で行える仕組みを確立する必要があるってことでしょうか。

と、ここまで書いて気がつきましたが、意外とありきたりな結論に結びつきかけようとしている自分に気がつきました。ま、いっか。芋焼酎飲んでちょっといい気分になってることだし。


post by ノリユキ at 03:21 | Comments/Trackbacks(0)